激動のキャリアと、人生を奪い返すための選択

Rocoの独り言

こんにちは😊ROCOです。
私の事について語ってみようと思い、PCに向かっています。

同じように『年齢を理由に諦めそうになっている人』や
『人生の壁にぶつかっている人』の力に少しでもなれば嬉しいです。

興味をもっていただけましたら、ぜひ最後まで読んでください。

【第1回】20代〜40代編

今でこそ「50代からのWebデザイナー」として新しい挑戦を楽しんでいますが、私のこれまでの人生は、決して平坦な一本道ではありませんでした
むしろ、激流のなかに放り込まれ、そのたびに自力で泳ぎ方を覚えて生き抜いてきたような、そんな感覚です。

私の物語の原点は、20代前半の、あのエネルギーに満ちあふれていた日々にあります。

「好き」という気持ちだけで走れた20代

20代前半の私は、とにかく無鉄砲で、エネルギーの塊でした。
当時働いていたのは、ABCmartの商品管理部門。
委託業者や各店舗への入荷、在庫管理、受注発送までを裏方として一手に引き受ける、目まぐるしくもやりがいに満ちた毎日でした。

そこで出会った人と社内恋愛を経て結婚。
北海道に新店舗がオープンするタイミングで、夫は副店長、私は在庫管理とレジのオープニングスタッフとして、揃って北の大地へ移住することになりました。
未知の土地での過酷な店舗立ち上げでしたが、当時は「好き」という気持ちだけで、どんなことでも乗り越えられると信じていました。

訪れた試練と、母としての覚醒

しかし、人生はそう甘くはありませんでした💧

生活の環境が変わり、働き方をパートやアルバイトに変えた頃から、遠い土地でのホームシックや、夫婦間の価値観のズレが少しずつ浮き彫りになってきたのです。さらに、夫の転職や隠されていた多大な借金など、家族の経済状況を大きく揺るがす問題も次々と発覚していきました。

一番寄り添ってほしい時期に訪れた、精神的にも肉体的にも限界ギリギリの孤立無援な状態。
そんな絶望的な孤独のなかで、

1999年、私の人生に唯一の光である息子が生まれました。

お腹にいる時から「この子のために頑張れる力が欲しい」と願い、生まれてからは「何があっても、この手でこの子を育てる。私がしっかりしなきゃ!」と、毎日必死でした。

でも、周囲に頼れる人もいないなか、一人の「母」としての責任感だけで突っ走った「頑張るぞ!!」という強い気持ちは、完全に一人で空回りしていました。

育児、仕事、生活費の工面、そして容赦のない借金の対応……。

心身にかかる凄まじいダメージに身体が耐えきれず、32歳の時、私はついに限界を迎えて倒れてしまいました。

病名は、髄膜炎からの脳炎
半年近くに及ぶ入院と、その後のリハビリ生活を余儀なくされたのです。

命の危機を経て、リハビリをクリアしたタイミングでようやく地元の埼玉に戻ることができました。
実家に戻っても居場所はなく、幼い息子を抱えて朝まで開いている居酒屋で働くという過酷な再スタートでしたが、少しずつお金を貯め、団地を借りて実家を出ました。

この時、私は一人の「母」として、
そして一人の人間として、本当の意味での覚醒を果たしたのです。

400万円を背負った8年間と、掴み取った「武器」

その後、家族が抱えた400万円という莫大な債務が・・・
家族の失態を私が身代わりに背負うという信じられないような展開が待ち受けていました。

普通なら逃げ出したくなる状況です。
しかし、私は折れませんでした。 息子を守るため、当時働いていた物流倉庫でパートから正社員へと這い上がり、フォークリフトの免許を取得。
そこは厳しい環境の職場でしたが、「この債務を完全に払い切るまでは、絶対に弱音を吐かない」と心に決め、文字通り血の滲むような思いで8年間働き続け、ついに完済してみせたのです。

完済した瞬間、私の中に眠っていた「本当の自立心」が目を覚ましました。 義務はすべて果たした。
ここからは、誰かのためではなく、自分の「好きなこと」を仕事にしよう。

そう決意した私は、物流倉庫を退職。
夜はIKEAのバックヤードで荷受の仕事をしながら、昼はスクールに通ってネイリストの猛勉強を始め、実際にネイリストとしてのキャリアを掴み取りました。
途中、働き詰めの疲労から大きな自動車事故を起こしてしまうという手痛い教訓もありました。
が、それを機に働き方を一本化し、自分の腕一本で人を笑顔にする充実感を味わいました。

決別、そして自分の人生を奪い返す

夫とは長年、すれ違いの生活が続いていました。
それでも私が関係を繋ぎ止めていたのは、
「息子が成人するまでは、母親としての責任を完璧に果たす」
という、自分自身との約束があったからです。

そして8年前、息子が高校を卒業し、無事に就職を決めた最高のタイミングが訪れました。
それと同時に、これ以上は家族として看過できない決定的な出来事が重なり、私の心は完全に決まりました。

「もう、私の人生にこの重荷はいらない。これからは、私の人生を生きる」

20年以上続いた激動の生活に、自分の手でピリオドを打ち、離婚届を提出しました。それは悲しい終わりではなく、私が私の人生を完全に奪い返した、最高のスタートラインでした。

(第2回へ続く)

コメント